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10-27, 2004

音楽を身近に置く2?旨いものと音楽 後編

音楽を身近に置く2、いよいよ後編です。
前編はここ
中編はここです。

こうみてみると現代は音楽の聴かれ方にも様々なパターンがあることに気付き、自分も可能な限り生活の中での音楽の聴かれ方を試してみてはいるが、それらも所詮そのどこかに含まれていることがわかる。

余談だが以前はシステムの規模の違いはあるにしろ、オーディオ趣味というものが一般的であって、現在のパソコン人口にも匹敵する数が存在していたように思う。そういった人々は現在でいうとどちらかというと音楽ファンではなく「オーディオマニア」に含まれるのであろう。
当時持ち運び可能な音楽機器は非常に限られていて、音楽を身近に置くにはそういった据え置きの機器を使用する必要があった。かつて自分の実家にもそういったシステムがデンと鎮座していて、しかもその割にはソフトはほんの数十枚しか置かれていなかった気がする。それが音楽ファンではなくどちらかというとオーディオマニアに分類される由縁なのだけれど。それでも日曜の朝なんかはわりと大音量でレコードやFM放送が鳴っていたのを思い出す。

現在こういったシステムに対する聞き手側の投資はほとんど皆無。今どきただでさえ狭い家にタタミ一畳は喰おうかというスペースを音楽用に割こうという人は少ないのだろう。現在の都会の住宅事情ではスピーカーで音量を出せなくなったし、予算的にも数十万からの予算を音楽を聞くためだけの機器に使おうとする人はほとんど見かけなくなって、それに伴っていわゆるステレオシステムは一部電気街などに行かなければ手に入らなくなってしまった。一般的にはこの層はほとんど状況1か2、3のパターンに吸収されてしまったのだろう。同じ予算を何十万も使うなら、プラズマテレビやDVDシアター、もしくは最新ノートパソコン、といった考えをもつ人達だ。
これらの人達に対するマーケットとしての見方も、一部ハード部門をもつメーカー以外の音楽業界ではほとんど無視に近いのではないか。まあ数字でみれば全体のコンマ以下の割合だろうから。

ところが、作り手からみるとこのシステムでの聞かれ方は、我々が音楽を手放したときに聴こえていた形に最も近いのだ。だから自分としてはぜひまたそういう風潮が復活してくれないかなとも思っている。

良くも悪くも、今の日本の音楽に対するコストのかけ方はハードメインからソフトへと移行したのだなと思う。ソフトがないがしろにされていた頃よりも作り手にしてはずっといい状況だとは思う。がしかし同時に、PA機材は別として、個人で持てるハードはずいぶん種類が増えたにしろ、ソフトから取り出せる音のクオリティや情報量は以前よりずいぶん下がっていると思う。
クオリティよりもコストが優先され、以前のシステムより音質の悪いMDウオークマンなどに付属のヘッドホンや家庭での安価ミニコン、パソコン用パワードアンプによって聞かれている音質、これらがいかに作り手が作っている環境で再生されている音に比べて劣化しているか、さらにそれによって作り手の意志を確実に何割か損して聞いている事態に、音楽ファンといわれる人たちでもあまり気付いていない事実は、自分としては本当に残念に思う。

音楽の質自体はいまも実質そんなに低下しているわけではないと自分は断言したい。それは少なくとも自分の関わっている現場ではそうだ。がそれを再生する機器はコストを下げ、能力をある程度で妥協してしまっている。こんどはその妥協が悪循環を呼び、制作現場でもクオリティの基準を大幅に下げてしまっている。スタジオにはせっかく高品位なモニタースピーカーがあるのに、参考にされるのはラジカセの音だったりするのだ。
また近年多くの音楽の録音現場ではそのコストを下げるために数々の策が採られているが、自分の感想ではその策のせいで更に悪循環、結果生活の中での音楽の捉えられ方自体が低下しているのではないかと思う。人々の生活の中での音楽の地位が低下しているのはその廉価化されたソフトとそれを取り出す機器のクオリティに問題があり、以前は宝物のように大事に作られたソフトが、クオリティを低く抑えられ現状は売る側のカタログを埋めるためのたんなるひとアイテムとなってしまっているのではないか。せっかく魅力を放つ可能性をもつ音楽が納められているかも知れないのに、非常に残念だと思わずにはいられない。

もともとは非常に鮮度ある状態で、我々の手元を放たれていた音楽、それが今ほとんど死にかけたような状態でリスナーの手元で聞かれている状況が、自分にはいちばん辛い。

この状況は、例えるなら都会の食べ物の状況とも近い気がする。
もともと食べ物は、旬の季節にその採れる場所に足を運べば手をかけなくても旨いものが食えたはず。
便利さを追求して、都会にいながらにそれらを食べようとすればおのずと鮮度は落ち、もとの味とは似ても似つかなくなる。加工しなければ食べられなくなる。
その違いを、食べる方が便利さと引き替えにしたデメリットを憶えていたうちはいいのだけれど、時が経つにつれもとの味さえ忘れてしまって割り切っていたデメリットも忘れ、食べ物とはこんなものだと食べる人もあきらめている。生産者もその要求に合わせて旨さは二の次にしているとしたら、ずいぶん不幸な悪循環だと思う。だからこそコストを手間をかけ旨いものを食べに足を運ぶ人々も存在するのだろう。

そして音楽に再び目を戻すと、それと似たような状況が繰り広げられているような気がしてならない。

ならば自分が今いちばんお薦めできるのはその旬、その場所に行って食してくださいということ。つまりライブに足を運んでもらうということ。手間だし時間も掛かり毎日は無理だけど、かならずや新鮮さではがっかりさせない自信がある。そして聞き手はその新鮮さ、旨さを感じる感性を磨いていただきたい。それがより高い要求を生んで、いずれ妥協の悪循環を止めることが出来るかも知れない。

なんとこのコラム「音楽を身近に置く」という記事の趣旨とは反しているかも知れないことになってしまった。

音楽をよりよく聴くには新鮮さに勝るモノはないのだろうか。
新鮮さを知ることによってのみ、身近に置く音楽がより旨いかどうかを感じることが出来るのだろうか。
音楽を身近に置く、より良いこの行為のためには、聴くという行為の深層に、より深い信念や経験が必要な気がしてしまった。

今回の「音楽を身近に置く」、ずいぶん長くなってしまったしテーマから矛盾する話にもなっていってしまった。
次からはどうしようかと頭を悩ませているが、ちょっと希望の持てる未来の話などをしてみたいと思っている。それでは。
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